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What is TUNING?
1980〜1981年頃

日本では、どうしてレーシングやモディファイド
ではなく『チューニング』というんだ?
そう聞かれて、あらためて記憶を辿ってみた……

TuningPOWERS!というショーをやっているときに、
アメリカのPRIという団体と提携をしていた。
パフォーマンス・レーシング・インダストリーの略だが、
最初は、インディで、そしてオーランドに場所を移し、
数年前からはSEMAショーと合同提携となったが、
SEMAショーと異なるのは、徹底的にレーシングパーツONLY。

エンジンパーツやサスペンション、コンピュータは言うに及ばず、
展示されているもので、1台のレーシングマシンが組める。

会場も広大で、2日歩いて、やっと一巡できるか?というもの。

そんなPRIで、開催責任者のフランシスクに、聞かれたことがある。

「Mr.fujimoto 日本では何故『チューニング』なんだ?
ビジネスで日本を訪れると、『レーシング』と『チューニング』という
ふたつのジャンルがあるというんだが、理解できない!」

アメリカでは、『レーシング』か『モディファイド』という。
『チューニング』というのは、辞書を引けば出てくるように、
『調律』である。どうして日本では、『レーシング』と
『チューニング』というふたつのジャンルに住み別れているのか?

そう聞かれて、言葉に詰まった。
どうしてなんだろう? 何故、日本では、そうなったんだろう?
自分の記憶を辿りながら、CARBOYに入った頃を思い起こしてみた。

で、フッと気がついたのは、ひとつの広告だった。
京都にあったクワハラ自動車(東のTOM’S、
西のクワハラ自動車と言われたレーシングファクトリー)が、
CARBOYに広告を出していた。

そのなかに、2T-Gをベースにした
『ファインチューンエンジン』
というものが掲載されていた。

ま、ポートの段付き修正をして、
面研&薄めのガスケットを組合せた仕様だった
と思うが、その広告を見て思った。
「ンッ? ファインチューン? チューン? チューン??
で、それ以降、CARBOYの記事中で、チューンという
表現を使うようになった。そして、その派生語として、
チューニングショップ、チューナー、チューニングマシン、
L型チューン、REチューン、チューンノウハウ……どんどんと、
チューン関連用語を増やし続けた。
まだ、OPTION誌が創刊する前の話である。

上のCARBOY1981年4月号は、藤本が初めて
チューニングショップ取材に行ったときの号である。
このときから、チューニングという言葉が使われ、
その後、数限りないバリエーションを増やしていく。

そっか、原点は、クワハラ自動車にあったんだ。
……とまあ、最近まで、そう思い込んでいた。

しかしながら、最近、創刊当時のCARBOYを見直してみると、

1980年11月号に「最速ロータリーチューニング東西対決」
という記事が掲載されていて、その中身は、神戸の
木の実レーシングvs雨宮自動車のチューニング対決というものだった。

藤本がCARBOYで仕事を始めたのが1981年の3月から。
そのときのCARBOYの表紙は、松坂慶子さんだった。
こないだ、娘にそんな話をしたら「松坂慶子さんって、誰?」と
聞かれてしまった。そっか、そうなんだ……。

 

ま、そんな話はどうでもいいのだが、自分で思い込んでいた
『チューニング』という言葉は、藤本がCARBOYに行く前に、
使われていたということになる。
思い込みというのは、凄いもんだと思う。

同じ号に「点火系チューニングパーツ大カタログ」という
企画もあるので、当初は、『調律』という意味合いで
使っていた『チューニング』という言葉を、エンジンの
チューニング等に流用したんだろうと、推測される。

というのも、多分、その原稿というか、タイトルを付けたのは、
初代CARBOY編集長だった橋本茂春さんだったと思えるのだが、
彼はとうに亡くなってしまっているので、聞くことができない。

CARBOYという雑誌を創刊した橋本茂春さんは、
とにかく修理が好きで、壊れたものを直すのが趣味だった。
だから、そういう雑誌を作りたい!とCARBOYを創刊した。

そして、1年ほど経った頃に、藤本が入ってきて、
藤本は修理が嫌い。修理するなら、以前のものよりも
性能を上げたい……というのが性分。

知り合いで、深夜のゼロヨンをやっている人間や、
自分でエンジンを改造している人間、
そういう人間が、日本にはいっぱいいて、
そんな人間が作るものを紹介する雑誌を作りたい。

まったく未知の世界だった『チューニング』という世界に、
足を踏み入れようと提案したときに、橋本さんが言った。

「藤本くん、それは、暴走族じゃないか。雑誌が、暴走族を
扱うというのは……ちょっとダメじゃないか?」

「そうですね。確かに、夜に走りに行く人種は、暴走族ですね。
でも、ボクの言っている人種は、金属バットも積んでないし、
旗も積んでませんよ」

「う〜ん、でも……う〜ん、そうか、じゃ、藤本くんがやりなさい。
CARBOYとしては、これまで通りの方針でいくから、キミが取材する
ものだけにすればいいんじゃないか?」

「は、じゃ、そうします」

ということから、『チューニング』関連の取材を開始した。

最初に、大阪築港のゼロヨンの記事や、L型の改造の話を
掲載していって、もっと本格的に、大阪L型の取材をしたいと思い、
最初に電話したのはMレーシングだった。

「あの、CARBOYという雑誌なんですが……大阪のL型の
取材をしたいと思いまして……協力してもらえ……」
「あーん、オマエんとこか、勝手に臨海のこと出したりする
雑誌屋は……猟銃持って乗り込んだろか〜と思てたんや。
あんなことして、ただじゃ済まさんぞ〜!」

そのときは、光田さんと会ったことがないので、
あの風貌が想像できていなかった(笑)

「社長、社長ンとこは貝塚ですよね。ボク、岸和田なんです」

「ンッ? ほんまか? なんや、近所やないか〜」

そんな馬鹿げたことから、大阪L型取材が始まった。

そして、CARBOYは、ドンドンと『チューニング』関連の
取材を拡大していき、創刊当初のCARBOYの『修理』という
ジャンルから離れていった。

そして、ある日、橋本編集長が、

「藤本くん、なんか、いまのCARBOYは、私が作りたかった
雑誌とは違ってきた。でも、評判はいいし、部数も伸びてる。
私は、別の雑誌を作るから、CARBOYは頼むね」

そう言って、後年、オールドタイマーという雑誌を作った。

 

谷田部で良い子ゼロヨンをやり、それがゼロセンに発展し、
その後、FISCOでCARBOYゼロヨンへとつながっていく頃の話。

おっと、『チューニング』という言葉の原点を探っているうちに、
脇道にズレてしまいましたね。

だから、『チューニング』という言葉を雑誌屋として使ったのは、
初代CARBOY編集長の橋本さんだっただろうし、
それを五段活用していったのが藤本なのかもしれない。

その結果として、アメリカ人からは『チューニングってなんだ?』
と思われながら、いまや常識的な用語として使われ、
アジア圏では、日本から様々なものを輸入した経緯のなかで、
『チューニング』という言葉は、当たり前のものとして
同時輸入されていって、当たり前のように使われている。

なんだか、36年前のことを思い出すと、懐かしくもあり、
オカシクもある。




■ 今だから話せる秘話(笑) ■

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